陛下が震災一年目の追悼式で、放射能の問題を懸念しておられましたね。
その後も被災地に寄り添い続ける姿勢、陛下はどの政治家よりも真に国民のことを心配してらっしゃるのだ、と常々感じています。
放射能から目をそらさせようとする政治家、被曝なんて大した事ないとしか言わない学者達に恐怖を抱く一方で、でも陛下は心を寄せて下さっている、そう感じ、私は陛下にずっと励まされてきました。
あの陛下だからこそ、手紙をしたためたくなるその気持ちは、とてもよく分かります。
陛下はきっと丁寧に読んで下さったのでしょう。
とはいえこの行動、どう「捉える」べきか。
山本さんのこの行動、政治利用かそうでないか、と言えばまあ、政治利用だと思います。タブーだと思います。一種の「罪」を犯したのだと思います。超えてなならない一線を越えたのだと思います。
しかし。
なんというか、「ああ、そうか。この問題はタブーを犯す価値のあることなんだな」と気付かされました。私は。
私は正直、諦めてました。もういいや、って。
自分だけせめて西側の野菜でも宅配して、住み慣れたこの場所を去るのは嫌だから呼吸被曝と外部被曝についてはもう仕方ないと言う事にして、そして神様にどうか健康被害が起きませんように、我が子が病気になりませんようにって祈って、もし健康被害が起きてもきっと政府は認めてくれないだろう。そして原発作業員の人達が使い捨てにされている、多くの作業員の人達が被曝による疾患に見舞われるかもしれない、だとしても誰もそれを労災とは認めてくれないのだろう。でもこの状況を変える事はできない、それが世の中の空気だから。って。
でも山本太郎は諦めてなかった。
本気でこの問題をなんとかするつもりだった。
山本太郎は国民の命を守るために、天皇を利用しようとすらしている。
なんかねー、恥ずかしながらわたし、泣いちゃったんですよ。
なんで泣いたのか分からんのですけど、泣いちゃったんですよ。
山本太郎は陛下にこの問題と対峙させてしまった。陛下にある意味「背負わせて」しまった。これは実に、大罪かもしれない。
ああ、山本太郎にこんな大罪を冒させてしまった。
ああ、陛下にこんなやっかいで重い問題と対峙させてしまった。
我が日本が、我々国民が、情けなくて悲しくて、泣けてきてしまった。
すべて、本当は国民が対峙しないといけない問題なのだ。陛下に背負わせてよいわけがないのに。
国民が国民の責任で始めて支持して爆発させた原発。
国民がこの責任を果たさなければいけない。
天皇が一言、反原発的、反被曝的なことを言って下さったら、もしかしたら大きく何かが動くのかもしれない。
だが、それを待つのか?
天皇の一言がなければ動けない?あまりに未熟じゃないですか?
まるで戦争責任を天皇に負わせることのように未熟。
国民が始めて国民が支持した戦争なのに、その終結だけ天皇を頼みにしていた、幼児のように未熟な日本人達。
またあの失態を繰り返すのですか?
国民の健康と放射能の問題、このやっかいごとを天皇に背負わせたのは、誰だ。山本太郎か?
否、国民だ。
ぐだぐだと煮え切らない、誰も放射能と向き合わない国民だ。
まるで戦時中のトラウマの再現。
みんな分かっていたくせに、この戦争はもうやめたほうがいいって分かってたくせに、天皇陛下が終戦宣言してくれるまで戦争をやめられなかった未熟な国民。
今度こそ、自分たちで始めて自分たちで支持した原発の問題、自分たちで決着しないといけないのではないですか。
日本人は今度こそ、自分たちで責任を全う出来る国民とならなければいけない。
そんなことを思ってしまいました。
最後に、西郷隆盛のこんな言葉を。
命もいらず、名もいらず、
官位も金もいらぬ人は、
始末に困るものなり。
官位も金もいらぬ人は、
始末に困るものなり。
この始末に困る人ならでは、
艱難をともにして
国家の大業は成し得られぬなり。
艱難をともにして
国家の大業は成し得られぬなり。
※山本太郎が我々に突きつけたもう一つの問題は「罪と正義」だ。議員が天皇に手紙を渡す、というのは不敬という罪である。しかし史上においてその罪が必然的に発生する時があるとしたら、それは今このときを置いて他ならないであろう。
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